皆勤賞
敷物の上でウトウトしている「ちち(仮名)」さん。このように落ち着いているのは、昼の間、家に人がいて心が満たされていたからなのでしょう。寂しい1日を過ごした夜は、飼い主について回って撫でて遊んでと大騒ぎです。元気に走り回っているのも良いのですが、このぐらいの大きさのワンコになると、やはり適度に元気で、かつ可愛らしく寝ているのが一番です。
新型コロナウィルス感染症への不安から学校へ行くことができない、あるいは、保護者として子どもを学校に行かせられない、というケースにどう対処するか、という話題で教育委員会事務局の人と話をしていたときに、「皆勤賞」という懐かしい言葉が出ました。飼い主にとってはこの言葉、甘酸っぱい青春の思い出・・・・・なのです。
出席簿の例です。中学校や高校では教科担任制ということもあって、1時間の授業ごとに生徒の同棲を記録するタイプが主流でした。飼い主は高校の3年間、欠席なしで過ごしたのですが、ただ1時間だけ、「遅刻」が記録されています。視聴覚室へ移動して授業を受ける時間、周囲が喧騒で教科担任の呼名に気づかず、返事をしなかったので、「始業時にそこにいなかった」扱いとなってしまったのです。
私の通っていた高校では、3年間無遅刻無欠席であると卒業式で「皆勤賞」が授与されるという伝統がありましたが、この「遅刻」があって私はその栄誉に浴することができなかったのです。当時、抗議はしたものの、返事をしない、注力散漫なお前が悪い、ということで却下されたのです。そしてその「皆勤賞」を授与される者として登壇した中には、当時の「憧れの君」がいたのです。あの隣に自分が立っているはずだったのに、という無念な思いは、半世紀近く経った今も鮮明な記憶として残っているのです。
1週間見開きの出席簿、1時間あたりの記入スペースは幅3ミリほどしかありませんので、月日が流れて出席欠席を記録する側になった私はデスクペンを愛用しておりました。しかし、とても面倒なのでついついサボってしまいがちです。しかも、自分の暮らすに授業に来てくださった先生が教科名を記入し忘れることもよくあって、出席や欠席の記録を確認すると同時に、その日の時間割表を見て抜けているところを補う、というのも学級担任の仕事。けれど、これがまた面倒で面倒で・・・何日分も記入せずにため込んであとから泣きながら書く、なんてことも、一度や二度ではありませんでした。
今、私の勤務している自治体では、こういう1時間単位の細かな出席簿は姿を消しつつあり、1日単位の記録が主流となっています。10月は祝日がないので、「学校のある日」が21日です。で、欠席した日が3日であれば、出席したのは18日、となるはずですが、話はそう簡単ではないのです。もし台風か何かで臨時休校になると、その日がの除かれて、授業日数が20日となります。そこから、伝染病や校長の命令、忌引きなどの理由で学校に来なかった日を差し引いた残りが「出席すべき日数」となります。「出席した日数」と「欠席した日数」を足すと、「出席すべき日数」になるはずです。その中に、遅刻した日や早退した日が含まれているはずです。
コロナ禍の影響で、病気ではないけれど感染することへの不安から学校に行かない、という場合、校長がそれを妥当であると認めれば、その子が学校に来なかった日数は「出席すべき日数」から差し引かれます。けれど、私などと違う真面目な校長先生の場合、そういうのを認めずに欠席扱いにしてしまうこともあるようです。で、私みたいに「かまへんかまへん」などと言う校長は、槍玉に挙げられてしまうのです。
私の妻がかつて愛用していたデスクペンは、ペンポイントが斜めにすり減っていたそうです。一方、私が使っていたものは使用頻度少なめの美品という感じです。道具は使い込んでナンボ、ということからすれば、私みたいな使い方は全くダメダメということになりますね。
でも、思うのです。学校に来て、人の輪の中で学ぶことは大切ですが、それだけが万能ですべてというわけではありません。これからの時代は、学校ももっと柔軟な考え方を持って、来られない時、来にくい時は来なくてもいいよ、という風にすべきだと思います。一人でも多くの先生が、そういう柔軟な考え方を持ちつつ、それでいて、私のようにえぇ加減に流れることなくきっちりとお仕事をする。そうであれば、学校の未来というのもまだまだ捨てたものではないと思います。
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