隣り合わせの埃と蒐集
当Blogには、まともな中身や信頼するに足る内容などは一切ありません。きっと作成者が馬鹿なんだろうな、まぁしょうがないなと諦めて、暇つぶしにお楽しみいただければ幸いです。
エアコンの取り付け工事が無事に終わり、一番快適な生活となったのがワンコたち。これで、家族が誰もいない平日の日中も、一定の温度に保たれた室内で過ごすことができます。もともと、妻が長男を身ごもるまではエアコンなしの生活だった我が家ですので、なければないで何とかなりそうでしたが、昼間、閉め切った室内に取り残される犬たちのことが一番の気がかりだったのです。しかし皮肉なもので、かれこれ1ヶ月ほど、暑いけれどもエアコンがない、という生活を続けてきた結果、人間様の方が暑さへの耐性を上げたようで、何が何でもエアコンを使う、という無茶苦茶な生活から、極力エアコンを使わずに風を通す、という、ごく当たり前の生活へと変化したように思います。
こうして新しいのを取り付けると、みんながそちらに目をやります。で、エアコンのすぐ下に「変な箱」があることに気付くのです。とりあえず使わない物は本棚の上に放り上げる、という悪癖のせいで、長いことここに放置されていたものと思われます。それが、エアコンの取り付け工事の際、邪魔になるので一旦動かして・・・・・という中で見えるところへ出てきたのでしょう。見る人が見れば、あぁ、あれかもね、と思ってしまう、独特の模様の箱です。
埃まみれになっている箱。エアコンの吹き出し口に近いところにあったせいか、箱自体もかなりくたびれています。大変きたないのですが、これでも、簡単に埃を拭き取ったあとの姿なのです。家族が「変な」と言うのは、このロゴマークのことでしょうか。まさか、そのメーカー自体を指して「変な」と言っているわけではないでしょう。まぁ、そう言いたくなるメーカーではありますが、箱の中身は萬年筆ではありません。
埃は箱の中、保護袋にまで達しておりました。これは掃除機で念入りに吸い取ったり、それなりのブラシでお掃除をしたりしなければとれません。この保護袋がなければ、肝心の中身も埃まみれになっていたのか、と思うと、あぁやっぱり保護袋って意味があるのだなぁ、と意味もなく感動してしまいます。
これの中身はペンケースで、その昔、ネットオークションで出ていたのを落としたものです。ペンケースの出品自体が少ないので、けっこう高値まで行くことが多いのですが、確かこのときはライバルがおらず、すんなりと落とせたように記憶しています。
なかなかしっかりとした造りのペンケース、これで12本入りです。箱は2つありましたが、もう一つの箱に入っていたのは24本入りのペンケース。どちらも、ケースの外側にジッパー付きの収納スペースがありますが、ここにはどういうものを入れるのが良いのでしょうか。
最近ではWAGNERなどに出席しても、いわゆる「見せびらかし」をやらないようになりましたが、かつては一生懸命に「見せびらかし」をしておりました。これどう?と他人様に萬年筆を握らせ、書かせるというものです。別名、布教活動とも言いますね。それをするために、普通より多い本数の入る、持ち歩きできるペンケースを必要としていた時期があったのです。そういえば最近は、WAGNERに行っても萬年筆以外の話で盛り上がることが多くなってきましたし、何より本数が増えなくなってきました。埃をかぶっているコレクションを整理して、またこんなケースに詰めて「見せびらかし」するのも面白いかもしれません。
たしかにそんな時代もあったなぁという事が、簡単に思い出せます。その一方で、見せびらかしは必ずしも好意的に見られるものではなく、人によっては(その人が万年筆愛好家かどうかにかかわらず)引かれることもあるという事も、またその中で学んできました。
見せびらかし出来るようなものもありませんが、それでも、自分のものを見せるのは、相手がそう望んでいるか、あるいはそうしたほうが喜ばれると思う時だけにするようになりました。筆箱を出し、自然に使うだけで、望んでいる人は、興味を持ってくれます。
そもそも見せびらかせるだけの数を持っていなかった時に、最初に書いたようなことを学んだので、引かれることはそう多くなかったのではと思っています。
私よりも短いという人々、特に同じ年代で私より短いという人々は、自ら見せびらかすことを正義としているように感じます。私が最近感じている寂しさの一つの要因は、そんなところなのかもしれません。自分が既に長い部類になってしまい、その中で経験したことを、共有できないという。
投稿: 達哉ん | 2014年6月16日 (月) 13時35分
達哉ん さん
あの頃は本当に、充実していたと言うべきでしょうか。あの店に来れば、たとえそれが展示されていないペンであっても試筆できる、そんな感じでしたから。
思うに、そうやって見ず知らずの人に書かせてもらったところで、よほどの強心臓でもなければ緊張して書き味を吟味するどころではなかったことでしょう。結局それも、布教などと言いつつ押しつけという要素を多分に含むものであったのだろうなぁ、と反省しております。
で、布教した相手がどのような道に進むか、それはその相手次第。そこに一抹の寂しさを感じるのも当然と思えますが、萬年筆をきっかけに、萬年筆がなくてもつながりを持てる、そういう人間関係というものは、若いうちはなかなかできないものなのかもしれません。そう、今すぐに結論を出すことでもないのです。ま、そうは言っても寂しいのはなかなか、待ってれば解決、というわけにいかないのが辛いところですけれども。
投稿: つきみそう | 2014年6月17日 (火) 07時07分